外壁塗装 塗り替え 熊本県 人吉市 有限会社巧輝建装
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霧の都人吉球磨の職人 こだわりの『塗り替えリフォーム』専門店 有限会社巧輝建装
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代表親方紹介

消費者直販のスタイルで「外壁塗装」を延べ700棟以上を行う専門店!

代表親方/内谷 孝一 (うちたに こういち)
◆昭和26年 人吉市下青井町にて生まれる。
◆昭和51年 内谷塗装店創業
◆元小学校PTA会長

【主な所持資格】
◆足場組立作業主任者

◆1級技能士
※全国建築塗装技能競技大会3位

◆2級施工管理技士(仕上げ)

◆2級施工管理技士(土木)

◆有機溶剤作業主任者

◆高所作業車運転主任者

◆特定化学物質作業主任者

◆一般建築物石綿含有建材調査者

◆職長・案ぜん衛生責任者

◆KYTリーダ−

内谷 孝一はこんな人間(ヒト)です。
私は、昭和26年9月21日に人吉市の下青井町で誕生しました。

両親にとって、初めての子供で小さなころは大変可愛がられて育ちました。
二男、三男と弟達ができてくるにしたがって生活が苦しくなり、瓦職人だった父親も次第に荒れるように
なり弟が4人になった時、私一人が母方の祖母に預けられました。

祖母は、お灸を仕事として毎晩お客さんの所に行きます。
当時小学4年生だった私は四畳半一間の借家で、電気もなく隙間風が入り真っ暗でさみしくて怖くて、
特に冬になるのが一番嫌でした。

というのは、布団がないのです。

夜祖母がお灸に行く前に(早ょう寝れ)と言って私が横になると上から新聞紙を何枚もかけてくれますが、
少しでも動くとずれて寒くて寝れません。

祖母に行くなと泣いて頼む毎日でした。(今思うと祖母も辛かっただろうと思います。)

貧しかった時代の思い出
そういう状態の生活ですので、食べるものもろくにありません。

ある時、8月の暑い時期でしたが、夕方八百屋の前を通ったらスイカが店の前に捨ててありました。

貰って家で割ってみたら中はほとんど腐っていましたが、それでも半分くらいは夢中で食べました。

それから毎日、八百屋さんに行き捨ててある物は全部貰って来て食べていましたが、1週間ほどたった
時、夜中にものすごい腹痛があり、嘔吐・下痢が2日間続きましたが病院に行くお金もないし自力で治し
ました。(人間の治癒力はすごいと思いました。)

温かく優しい恩師との思い出
月日が経ち、小学6年生になり2学期の修学旅行が迫っていました。
当時は1泊2日で鹿児島県でした。

もちろんお金がないので、私は旅行の3日前から学校を休んでいましたら、担任の加藤先生が来られて、
「お前の旅費などは先生が出してやるから、ぜひ行きなさい」と言っていただき、祖母も私も「なんという
温かさのある先生だと」涙をぼろぼろと流してお礼を言いました。

が、結局修学旅行には行きませんでした。

なんでかなと、今までも何度か考えた事がありますが、はっきりとその時の私の気持ちがわかりません。
多分自分の中で、なにくそ、という意地があったのだろうと思います。

祖母との別れから中学卒業まで
私を育ててくれた大好きな祖母も私が小学卒業後に亡くなりました。(大変つらかったです。)

私は中学に入り、父は出稼ぎに出て母と兄弟7名の生活が始まりました。
しかし、これがまた悲惨な生活の始まりでした。

父からの仕送りはたまに2〜3千円あるくらいで、仕方なく新聞配達を始め約120件を毎日配り続けました。

当時の中学校はまだ給食ではなく、弁当でしたがその弁当も1週間に1回持っていければよいほうで、
昼食時は、ほとんど美術室で過ごす事でした。

当時から絵を描くのが大好きで、小学6年の時は西日本スケッチ大会で最優秀賞をもらったことも
ありました。

2年生の修学旅行はもちろん行かれませんでした。

この頃から両親の仲が悪くなり出し、父は音信不通時期があり、母は毎日パチンコ屋に入りびたりの
日々でした。

まだ一番下の弟が3歳くらいでしたから、毎日母がパチンコ屋から夕方帰って来るのを待つ日々でした。

そして、新聞配達のお金まで前借りする始末で、全部私に押しつけて(もう、知らん!)と家出した事も
ありました。

中学3年生になり、卒業アルバムの費用が払えなくて、担任の先生からクラスのみんなの前で、
内谷ともう一人には、アルバムはやらないと言われ、とにかく腹が立ったのをよく覚えています。
(今でも、英語教師の名前と顔をはっきりと覚えています。)

やはり、当時の住まいは、あばら小屋で食べ物さがしに裏山によく行ってました。

中学卒業から創業まで
中学卒業後は地元の左官業に入りましたが、住んでいた家の家賃が払えず、やむなく岐阜のパチンコ店
に就職する事になり、当時支度金で2万円出る事を母が聞きつけ行きたくないのに家賃を払うために家を
出ました。

1年ほど勤めて人吉に帰り、それから地元の(岩田塗装店)に弟子入りしました。
それから2〜3年が過ぎ、後は小冊子に書いてあるとおりです。

今、主なところだけ書いていますが、小説にしていいくらいもっと悲惨な生活でした。

今の職業に就いたのも、子供の頃から住む家に困り、温かい家族、食べ物などに強いあこがれが
あったし、また絵を描くのが好きだったことが根本にあったからだと思います。

あなたの夢かなえます!
そんな生活を送ってきたからこそ私は、
「住まいの大切さ」は誰よりも分かると思います。

塗替えやリフォームなどでお困りな点がありましたら
地元職人の私に一度ご相談ください。

 
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